昭和40年8月20日 夜のご理解


 今日、ある教会のご信者という方がお参りしてきた。御主人が、なんて言うんですかね、お酒を飲まれると気違いのような状態になられる。それがもう、夜のうちに2回ぐらいその、直々にいわば起こるわけ。ある教会に御神縁を頂いて熱心に朝参りをさせて頂いて、おかげを頂いておるけれども、いっこうにそれがやまんと。半年半年のことですから、お百姓さんですから、ようやく(?)まっておると、そのたんびにそれが足らん位に、そのつこうてしまうというわけ。
 それをお金を持って出られると、やはり、二・三日続けて帰ってこられない。そして帰ってこられると「もう自分のようなものはもうつまらんからもう、死ぬる死ぬる」というてから、その、農薬も一偏飲みました。睡眠薬も一偏飲みました。
 阿蘇、熊本の方ですから、阿蘇にも上りました。鉄道自殺もそれから飛び込み自殺も、もうとにかく、ありとあらゆる、自殺を計画してみるのですけれども、良いか腑が悪いかその度々に助かられてまあ今日までおかげを頂かれてあるという事。
 そして今度また、その、病気が起こって、もう今日で3日帰ってまいりませんと。とこう、椛目の話を聞いておりましたから、今日は実はもう本当に道も分からんところも見当でお参りさせていただきましたというて、参って見えられた。まだ若い三十四・五の奥さんでした。

 それでその、「お取次ぎを願う先生がどういう風に仰ったのですか」と私が申しましたら、「あの、今度は農協から金をとっていっておるがいくら、取って言っておるか」と。「沢山、とっていっとりゃあ、ひょとすりゃあ(?)せんし、少しばっかりなら熊本市内じゃろうと」とこう先生がいわれる。沢山持っていっとられりゃあ、つ(?)お金を(?)引き出していないならばあ、熊本市内じゃろう。と。「だからそこば探しなさい」とこう言われると。
 ところが、今朝もお参りをさせて頂きましたら、丁度先生が出かけなさいましたから、「あー、先生でかけられよりますか」と、ところが「私はあんたがた事が心配でたまらんから、ちょっとあんたのところに出て来よるとことだった」とこう言われる。
 
 これもやはりある教会のご信者さんが参って見えられてからのお話である。裁判問題が起こった。どうしても、その為に御神縁を頂いて、一生懸命お願いをさせて頂いた。まあおかげを頂いて、えー、おかげを頂いてというより裁判は、別としましてです、もう本当に私が裁判のお願いをさせて頂きましたら、(?)先生が仰るのに、「非常にその裁判のほうにくわしゅうなられました。勉強してから、「こういう時にはああいいなさい、こんときにはこうしなさい」というてその、教えて頂いてもう私の為に一生懸命勉強して下さいますと。
 ところがその一向におかげが受けられんから結局椛目に来たとこういうのである。

 みなさんどういう風に感じられます。私共本当にお取次ぎの真似をさせて頂いておりますけれども、様々な難儀なお取次ぎをさせてもらいます。そのお取次ぎをさせていただくたびに信心の稽古です。白真剣な稽古です。ね。
 本当にその都度都度になるほどこの神様は生きておるな、この神様は一分一厘間違いないなという体験を積んでいくのである。私はそのことを聞かせて頂いてから思うのですけれども、えー例えば常識的に言えば本当に、立派な先生だとこう思うですね。親切な、しかもその、本人が気がつかない、例えば、あー主人が何日も帰ってこないと。沢山、金もっていったなら遠方じゃろうと、いわば推理小説のいわば、でもその、書くような読むような気がする。
 推理なんです。「沢山もっていっとるなら(?)あたりじゃろうと。ね、少ししか持って行っていないなら熊本市内じゃろうから熊本市内を探しなさい」とこう言う。
 ね。再三のお願いに出させて頂いたら、先生が裁判の勉強を一生懸命なさってから、いろいろとここん時にはこげんいうて。ここん時にはああでなさい、こう出なさいという事を教えて頂いた。お参りをさせて頂いてから、まあそういう勉強をして帰るわけなんです。

 本当に金光教の先生は親切な方だと。もうあそこの先生なんかはもう大祭に(?)もんですから、それも大変助かるわけ。先生が(?)同じ事で。ところがね、金光教の信心がここまで出したら、金光教の信心は生きた物は何にもなくなってくるけれども、そういうようなものがもう随分私は多いのではないかと私は思うですね。そういう意味でのお取次ぎ。これはお取次ぎだけではないですね。氏子の難儀を神様に取り次がせてもろうて、そして、氏子のおー、神の願いを氏子に伝えるという事は一つもない。
 ( ? )これではお取次ぎにならない。それは幸いのなにか、相談にいくようなものであり、ね、その事が必要ならばです、例えば推理小説でも読めばすぐ、そげなことじゃなかったちゃ分る。はあ、こんど金ば余計にもっていっとるけん、とおか処じゃなかろうか。(?)誰でも分る。そしてさあ、信者が困ったことがあるといやー、先生がで向いて行ってからそこに、相談に乗ってやろうというのですから、親切のようであってこれでは信者は助からんですね。

 私はあの、そういう意味会いにおいてから信心の稽古をね、まあ、一生懸命お取次ぎさせて頂いて、その実際の問題をです、もうとにかく、本気でその事に取り組ませて頂いて、また、同時にお取次ぎを願うてその人にも、その事に本気で取り組んでその事を通して、信心の稽古をさせて頂けとこういうのである。
 おかげを頂きました。同時におかげを頂いた時にはこういう事もわかりました、こういう神様の間違いない働きを感じましたというお取次ぎをさせて頂くわけなんです。ところがですね、信心の稽古というけれども、どういうような事を基準にしてどういうようなことを分らせてもらい、どういう風にして生きた神様を表していき、また自分が頂いて確固たる信念を築いていけるかと、果たして、お互いが日に何十ペン、生神金光大神様を唱えておるだろうかと。
 
 今日その家内に、中野さんがもうちに修行に来てからどのくらいになるかなあと、もう、百日もないと、そんなになりません、もう、ぼちぼち本当のことを教えてもよかろうと私は申しました。
 ね。家族中の者が言います。家でも沢山の修行した人がおるけれども、こげなよか人は始めてちいいよります。もう、何日経ったちゃ一つも何ていうでしょうか、その、んー、なれなれしないものです。もう非常にその、自由です。
 ですから、この、言うところがないです。まあ例えば人間的に。だから、こういうような例えばんなら、実意な横着気の全然無い人達が本気で信心の稽古をするようになったら、だから素晴らしかろうと私は思うです。ね。
 ところがなら本気で信心の稽古をしておるかというと、なら、こうやってまあ修行というか、ここにおらせて頂いておるというだけで、果たして信心の稽古ということにおいては、どれだけ出来ておるだろうかと、これはまだ私はいっぺんにどの程度に勉強が出来たか、形の上でどの位教えがわかったか、椛目に来てから、なるほど、椛目の信心はこうだといったものが何か得ただろうかと。
 物の見方考え方が変わっただろうかと。一偏そういう事を訪ねてみたいとこう思うて、ぼちぼち訪ねてみたり、そして考え方が間違っておるなら、またそこんところを教導していきたい、また、確固たる不動の信念も信心、本気での稽古をさせて頂いてから、ね、何処に出させて頂いても、ね、この信心は水にも流されなければ、火にもやけないといわれておるが、本当にどこに出されても火にも焼けなければ、水にも流されないだけのものを、一つ頂いてもらわなければならないと思う。ね。
 それをここでいうところの、神様の間違いなさ、そして本当のことを分かる。本当から本当のことの追求なのである。
 今まで思うておった事は一つ、物の見方一つでも、難儀なら難儀のというものの見方が違う、難儀といっておったものがです、ここでおかげを頂かせていただきよる内に、難儀というものではないと言うことがわかってくるというように本当のことが分らなければならん事の為には稽古をしなければ分らん。話聞いただけでは出来ん。ね。

 今日、(?)高山さんがお参りをしてこられた。「今朝のご理解を(?)頂いてから、もう先生いつの場合でも同じですけれども、私が朝お参りさせて頂こうと思うた前の晩に丁度、先生がお話になる内容を頂いて、もう本当に、私のようなもの、御信心のないものに神様どうしてあれだけ突き詰めて教えて下さるじゃろうか、(?)信心の稽古が出来ます」と言うてから、お届けをしておる。
 今朝方お夢を頂いた。ね、百姓してから、(?)をとったら藁だけでも還元せろというお言葉頂いた。百姓して、(?)をとったならね、藁だけぐらいは還元していけと、大地に。しかもね、あの燃やして灰にして捨てろというお言葉を頂いた。燃やして灰にして捨てろという事だと思う。
 それが、そこんところが分かったとね。(?)頂いたならば、藁ぐらい還元していけということは分ったけれども、燃やして先生、灰にしろと言うことはどげな事でございましょうかとと言うて今日ここでお伺いをする。
 ほんに素晴らしいな本当に一口で神様が、信心の要訣というか要諦というか、それを教えてござるという気がする。ね。それは、灰にしていけという事じゃけんもう、(?)まず、信心させて頂くならね、中野さんじゃないけれども、もう本当に素直にならなければ駄目だと言う事。ハイ。どんなことにもハイということ。

 自分の感情で動かないという事。ね、右にしても左にしても分らんなら、御神意を頂いて自分でこういう事が分らんなら、お取次ぎを頂いておかげにさせてもろう。右がよい左がよいと仰るそんな、そのとおりの事を無理だと思うてもです、神様が(?)と仰るなら、ハイという素直さなんだ。ね。
 ここの素直な心にならせて頂くことを本気で稽古させてもろうて、ここに生神様の働きをです身近な体験を、体験を通して、神様を自分の物にしていかなくてはならない、いうなら信念を壌かっていかなくてはならない。
 信心の稽古が分らなかったということでは絶対におかげにならん。体験が生まれない。ね。その素直にならせて頂く為に、本気で、馬鹿ほどに素直にならせて頂く為に、お互いがいわば、どんなに、寒かろうが、どんなに熱かろうが、ね、熱い寒いをいわずに信心の稽古をいわばさせて頂くのである。
 おかげを頂く為に、夏でも、上着を着ておりますと。おかげを頂かねばならん為に冬でも例えば火鉢に手を当てませんと例えばいうような事ではない。
 その事がどの位信心の稽古になるかと。その修行を通してそこに生き生きとした神様を頂こうとするところに信心のいわば稽古があるというわけ。 
 
 何十年お参りしても、(?)ここに移住しておって、おってもただ、おっておるだけでは、ただそれだけじゃあ人からみてもあの人はなんちいうよか人だろうかと、こげなよか人はなかと本当に椛目の者は皆見ている。家族中の者が。
 ただどんなによか人であってもです、よか人だからおかげを頂くのではない。根性が悪かっても、ね、そういう人間的な欠陥があってもです、おかげは頂きます。ね。
 だからその稽古をさせて頂こうと。これはもう、どんなに素晴らしい、大工の名人が、おる所に一緒に住んでいるからというてです、ね、どんなに素晴らしいことをいうたり聞かせてもろうたり、見せてもろうたりしてもです、ね、何故と、何故と、(?)くらいならなければです、稽古になりゃしません。
 また、稽古をしようという気にならなければ、稽古は出来ません。

 ね。果たして、お互いがどれだけ、信心の稽古を日々の生活の中から、生活を通してです、させて頂いておるか、ね、特別の例えば信心修行がどれだけ、どのような(?)を持ってです、どのような(?)今晩菊栄会ですから、まあいうなら、会議で高尚な人たちの、いうなら集いなのであるけれども、ね、高尚な人なら高尚な人たちでです、人には気が付かん、私はいうておる、例えばです、どうたらこうたら色々な中傷があっても、よかじゃない(  ?  )皆が気が付かんところで稽古だけはけじめだけはつけて行きよるのだから。心配はいらん。と例えばです、この、いわれておるだけの信心がいつまで続いておってもつまらんと。誰が見ても聞いても、なるほど、と合点がいくような信心の稽古にならなければ。

 ね。いうならば、一年生の時にです、性格にです学校を楽しみにです、それと同じようなものがです、内容が大変違ってきても、出来てこなければ、信心の稽古というものは、出来るものではないと。ね。
 人間が強うなる。感情が高ぶる。信心の稽古をさせて頂きよるから、高ぶるような事の場合でも、それを信心で頂いていき、ね、人情を使わずに心情一筋でやっていくことが出来る、そこに生きた神様を現していくことができるのである。
はあー。  (途中切れ)